思い出
あなたは日曜堂の9番目として生まれました。5才のころは兄夫婦の子のお世話にいく母につれられ、朝一番の電車で陸中松川駅まで。駅で下りると家業の新聞配達をする新聞を60部くらい受け取り、背負う母。あなたは手をひかれて、当時の狭山トンネルへ出る細い道を一緒に登っていきました。
一ノ関駅発5:50分の電車に乗るため、泊まった家を出る時にまだ夜が明けきらない時もありましたね。握り飯をもらって食べたことは今でもはっきり覚えています。戦前、戦中を生きぬいた母は「命玉」と言って、電車に乗るような時に必ず持参させていました。兄も姉も新聞配達を手伝って、学校を卒業し、9番目のあなた一人で配達しました。姉の話では、陸中松川駅まで家から3㎞を新聞の束を取りに歩いて行ったこと。その時は狭山トンネルを作っている時で大変だったこと。駅から新聞を持ってくると、すれ違いに登校する生徒に会うことなど話されました。そのころは一関市街へ行くにも、相川からは陸中松川駅まで歩いていくのが普通だったこと。大船渡へ20年後に勤務することになり、週末に盛から陸中松川駅まで乗ることもありました。100周年のうちのほんの50年、いや60年のおつきあい。線路は続くよどこまでも、いつまでも。シュッポッポー