一関のコスモス

投稿者

70代女性:一関市在住

想い出の場所

での思い出

思い出

「さあ、もう起きて!学校に行く時間だよ!

早く家を出ないと汽車に乗り遅れるよ!

弁当も作らなくちゃいけないし、駅に着いたら靴をはきかえて、さあ早く乗りなさいと、声をかけよう…。」

私は陸中松川駅から昭和44年4月から3年間市内の高校に通学として大船渡線を利用しました。

当時「山汽車」と言われていましたが特にいやな気分には不思議と感じませんでした。

私は自宅から駅まで20分ぐらい山道を歩くので制服に合わせた黒のパンプスは山道を歩く(走って)のはもったいないので、駅の近くのお店に靴置き場をおかりしてそこでズックからパンプスにはきかえて汽車に乗って行ったものです。単線なので上りと下りがすれ違う陸中松川駅は一関方面と千厩方面へ行く通学時間は駅は学生であふれていました。

帰りもそんな感じで上下線で一緒になり、行きも帰りも大勢でにぎやかに通学出来ました。

でも部活や生徒会などで帰りが遅くなり同級生が先に帰ってしまうと一人で山道を帰る時は淋しく、こわさもありました。特に秋から冬にかけて暗くなると心細くなるので、その時は路線バスも利用しましたが汽車通より落ち着かない気持ちでした。

そんな3年間をすごし、卒業式当日は3年間靴をおかせてもらった、お店のおじさんに菓子折りを友達と二人でお礼をしました。ちゃんとお礼出来た事、自分達を少し褒めたいと思います。

2~3年前約50年ぶりに散歩がてらに陸中松川駅に行ってみましたが、もう当時のおもかげはなく、売店もあったはずだけど無人駅となり建物も小さくなり、トイレのほうが大きくて、りっぱなトイレでした。今後駅を利用して気仙沼方面へ海鮮物を求めに行ってみたいなと思います。私の青春の一部の大船渡線でした。

みんなの思い出一覧に戻る
電車のイラスト