向風

投稿者

80代女性:一関市在住

想い出の場所

での思い出

思い出

今年、大船渡線開業百周年との事、大変おめでとう存じ上げます。昭和十年生まれの私は十歳年下という事で。九十歳目前です。初めての大船渡線体験が三歳だったと話すと特別のことでもあるかの如くにうらやむ人も居りますが、単に家族の引っ越しだったというだけの事、陸前矢作-摺沢間の移動に関する事何一つ覚えてなくてむしろ恥ずかしいです。

そこから二回目の体験に至る迄十年という時間を必要としました。その十年間を私は、戦争に取り上げられた十年だと思っています。大好きな物も、大切な物も、時間迄も一切合切を奪っていった戦争、大嫌い。四年生の夏休みに戦争は終わったけど国民の耐乏生活はそこから暫くの間続きました。

戦争に負けた事で教育内容は百八十度転換するし、戸惑う事が多かった。六、三、六、三、四の新しい学制の中学二年生になった春の遠足は束稲山。この時鉄道やっと二回目。大船渡線から東北本線に乗り換えて平泉迄。

そこからは自分の足に頑張ってもらい登頂。頂上から眺める回りの風景の素晴らしかった事。点在する黄金色の菜の花じゅうたんの素敵だった事。その風景今でも思い浮かびます。

高校でも大船渡線、二度程利用した筈で、一年生の遠足が大島。途中からの頭痛が帰りになってもおさまらずに残念な思い出です。

高校を卒業しました。実は高三の十一月、火災で家を亡くして居り卒業後は家の再建の為に役立ちたい思いが強く、良く働きました。仕事を選り好みせずにどんな仕事にも一生懸命取り組み、頼もしい存在だったと喜ばれ、当人も嬉しかったです。

仕事で大船渡を利用する事もある中である時、折壁駅の上りホームに気になる物を見つけました。看板?広告?掲示板? おや!と思った時には汽車は既に発車して居てどうにもならず、その後、チャンスを狙うも、車内からではどうも難しいかも、と途中下車をして確認した後一本遅れて家に帰った様な気がする。で、何が書いてあったの?

いつみてもふじかとぞおもうみちのくの

むろねのやまのゆきのむらぎえ

西行法師

ここでは敢えて平仮名オンリーにするも、本物にはどの様に書いてあったのか、漢字は使ってあったか、間違って覚えてないか、解説の類いのものはどうだったんだろう等々、全く覚えて居りません。今でもあの場所に歌碑?は建っているのか知らね。

因みに西行さんは生涯に二度みちのくに旅していて一度目は春爛漫の束稲山の様子を、これ程見事な桜の風景に吉野以外のみちのくの地で出逢えるとはと和歌で驚嘆、絶賛して居られますが、室根山の方は、“雪”なので二度目の時と考えるのが妥当でしょうか。どの辺りからの眺めなのか知りたいですよね。

大船渡線との思い出と言っても通学とか、通勤みたいに沢山利用した訳でなし、質的にだってとり立てて話す程の材料も無く、西行さんの和歌に会えた三十代の頃が利用度の一番高かった時期でした。

その直後に当たる三十代間もない時期に私は自動車学校に通い、運転免許を取得、その事に依って公共交通の利用が無くなったのは仕方のない事ですね。今回改めて指を折って見たら五十八年という歳月が流れて居り、卒寿という年齢に驚くというよりむしろ呆れると言った方が当たっているかも知れません。そろそろ車の運転は地元の病院通い程度にし、外出も控え気味にか…などと思案をしている所へ“プチ旅行”という話が舞い込む。

家の中にだけというのは不健康で、外出は心にも体にも絶対必要なんだから、プチ旅行ってのはどう?と言うのだ。電車をうまく利用して、盛岡位の距離なら充分日帰りが可能だし、月一回とか隔月なり、気の向いた時でいいんだもの、という話です。

車と免許証があったからバスへの乗り方も知らない“SL婆ぁさん”に手取り足とり優しく寄り添ってくれる人が側に居るお陰で楽しいプランも机の上の物だけで終わらず、兎にも角実践に移すべく、盛岡での時間の過ごし方について考えるだけでも楽しくなる。それと、又大船渡線を利用出来るというのも、嬉しい材料の一つとなっている。

お待ちかねプチ旅行第一回目。大船渡線上り摺沢駅から乗り込み一関迄。東北本線の盛岡行は始発一関の各駅停車で、のんびりと田園風景に癒されながら久し振りの県都を目指す。

盛岡で過ごす時間はお天気も良く、小さな用事も済ませ、快い疲労感も一緒に一関行きの電車に体を預けてしまえばあとは、爆睡するなり、一関で乗り換える迄心配なし。

県都よりもどる各駅停車にて

駅の名メモる八十九歳

東北本線、盛岡-花巻間あたり迄は殆ど不案内なものだから、後々の為にも駅名を覚える絶好のチャンスと言うもの。

一関が終点だし、発車迄は七分もあるので慌てることは有りません。大船渡線に乗り換え座席についてホッと一息。何とはなしに“我が家”的感覚。安心と言うか落ち着く。

目を閉じ、百年前に鉄道を設置しようという壮大な計画を実行に移して下さった人達に思いを馳せる。此の鉄道を敷いてもらった事で沿線の各地域がどれだけ大きな貢献に浴した事か。時代を先取りする人って時に狂人扱いに遭ったりもして、相当強い信念の持ち主でないと…誰にでも出来る事じゃないし…等々考えながら、摺沢がすぐそこだ。

隆盛のねがいつなげて一世紀

雨ふるあした かぜ吹く夕べ

ももとせをねべつる線と慕われて

200を託す ドラゴンライン

手紙の相手にされた人、可成り影が薄かったね。お疲れ様でした。ペンを置きます。

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電車のイラスト